20年以上前から、インターネットにどうでもいいことを書き続けています。
mixi、ブログ、Twitter、X、note。
日記だったり、その日に思ったことだったり、仕事のことだったり、酒のことだったり。
よくもまあこんなに書いたものだと思うくらい、インターネット上に自分の文章が残っています。
最近、それらをまとめてAIに読み込ませてみました。
2005年頃のmixiの日記から、現在のXやnoteまで。
約20年分。
これだけ自分の文章を読ませたら、AIから見て「自分」という人間はどう見えるのだろう。
単純に興味が湧きました。
そこで聞いてみました。
「俺という人間は、元々どんな人間で、今はどんなふうに変わった?」
返ってきた答えが、思っていた以上に面白いものでした。
根っこの部分は、驚くほど変わっていない
AIが最初に出した結論は、
「根っこの部分は驚くほど変わっていない。ただ、昔はその性質に振り回されていたのが、今はその性質を使って生きられるようになった」
というものでした。
2006年、22〜23歳頃の自分はこんなことを書いていたそうです。
「世界で一番不思議な人物、自分。世界で一番大好きな人物、自分。世界で一番大嫌いな人物、自分。」
恥ずかしくて原文を読み返す気にはなりません。
ただ、AIから指摘されたことがあります。
昔から、自分への関心がものすごく強い。
「俺って何なんだろう」
「なぜこう感じるんだろう」
「この人はなぜこうするんだろう」
自分だけではなく、人間そのものを観察する癖がある。
これは言語化されてみると、確かに今も変わっていません。
今こうして文章を書いていること自体、結局は自分主体です。
自分が何を考え、何を感じたのか。
43歳になっても相変わらずそんなことを書いています。
自由になりたかった
もう一つ、昔の文章から強く見えたのが「自由」への執着だったそうです。
確かに昔は「自由とはなんだ」「自由になりたい」みたいなことを強烈に考えていたように思います。
今は「自由」という言葉には少し抵抗があります。
そもそも自由って何なのか曖昧だし、なんとなく思想が強そうな言葉にも感じる。
ただ、今でも自分一人の時間は欲しい。
自分一人の世界、自分一人の空間も欲しい。
だから言葉が変わっただけで、根っこにあるものはそれほど変わっていないのかもしれません。
「面白いこと起きねえかな」から「じゃあ自分でやるか」へ
一方で、明確に変わったところもありました。
AIから指摘されて、これは確かにそうだなと思ったのが、
「面白いこと起きねえかな」から「じゃあ面白いこと自分で起こすか」へ変わった
ということです。
昔の自分は、好きな先輩や上司の後をくっついていくタイプでした。
その人たちを観察して、真似をして、自分の成長や変化につなげていく。
営業を覚えた時もそうでした。
ところが、いつの間にか周りにそういう「巻き込み型」の人がいなくなりました。
その結果なのか、自分で始めるようになりました。
仕事でも、蒸溜でも、商品開発でも、畑でも。
何か気になったら、とりあえず自分でやってみる。
そして問題が起きたら自分で調べて、自分で解決する。
自分は人を巻き込んで大きなことを始める「巻き込み型」ではなく、
自分で始めて、自分で解決する「自己解決型」
なんだと思います。
これは20年前には、今ほどなかった部分かもしれません。
結局、専門家にはならなかった
昔から、自分は一つのことを極めるタイプではなかったようです。
専門家に憧れた時期はあったと思います。
でも、興味が多い。
面白そうなものを見つけるとやってみる。
しばらく夢中になる。
やめることもある。
また別のことを始める。
そんなことを繰り返してきました。
Web、営業、動画、写真、酒、蒸溜、商品開発、畑、柔術、ゲーム、AI。
こうやって並べると相変わらず散らかっています。
ただ、今はそれをあまり悪いことだと思っていません。
色々なことに興味を持って、挑戦して、やめたり続けたりする。
その中で自然と自分の中に残ったものを大切にすればいい。
そう考えるようになりました。
文章を書くこともそうです。
小さい頃から好きだったことが、形を変えながら今も残っています。
昔から頑固だったらしい
AIには「昔からかなり頑固」とも言われました。
これも改めて文章で振り返ると、その通りだと思います。
人に勧められたから好きになるのではなく、自分で見つけて、自分で納得したものに強く惹かれる。
自分で腹落ちしないとなかなか動かない。
そして今書いているこの文章も、結局全部自分主体です。
20年経っても、ここはあまり改善されなかったようです。
改善する必要があるのかも分かりません。
何者かになりたかった
今回、昔と今を比べていて、一番大きく変わったと思ったことがあります。
昔は、
「自分は何者なんだろう」
と考えていました。
でも、これってつまり、
何者かになりたかった
ということなんだと思います。
いろんな人に憧れました。
いろんな人を目指しました。
この人みたいになりたい。
こういう仕事をしたい。
こういう生き方をしたい。
でも、それをやればやるほど、昔の自分が求めていた「自由」とは遠く離れた人物になっていったようにも思います。
人を目指すということは、自分ではない誰かの完成形に自分を近づけていくことでもある。
43歳になった今は、別に何者にもなりたくありません。
このままでいい。
なるようにしかならない
AIはもう一つ、
昔より、自分の性質を欠点として悩むことが減った
と分析していました。
これもその通りだと思います。
悩まなくなりました。
というより、
大体のことは、なるようにしかならない
と思うようになりました。
もちろん仕事の問題もあるし、人間関係の問題もあるし、失敗もします。
でも、そのたびに「自分はなぜこうなんだ」と自分そのものを否定することはかなり減りました。
2010年前後から仕事で成果が出始めて、少しずつ自分に自信を持てるようになった。
そこから色々ありました。
本当に色々ありました。
それを20年くらいやっていたら、いつの間にか、
「まあ、俺はこういう人間なんだろう」
と思えるようになっていました。
43歳、ちょうどいい自分になった
20年前の文章そのものは、恥ずかしいのであまり読み返したくありません。
でも今回AIを通して昔の自分を見てみて、一つ思ったことがあります。
昔に比べて、自分嫌いみたいなものが随分おさまった。
変わったところもあります。
全然変わっていないところもあります。
良くなったところもあれば、相変わらず面倒くさいところもあると思います。
それでも43歳になって、
ちょうどいい自分になったかな
と思います。
AIは自分のことを、
「自分の興味を実験しながら生きている人」
と表現しました。
そして、
「テーマがバラバラなのがruichannelで、そのバラバラなものを20年以上ずっとやっている一人の人間がテーマ」
とも言いました。
これはなかなか面白い指摘でした。
今まで「何を書こう」「何を発信しよう」と考えることがありました。
仕事なのか。
蒸溜なのか。
柔術なのか。
人生なのか。
でも、別に決めなくてもいいのかもしれません。
自分が面白いと思ったものをやる。
気になったことを考える。
やってみて、失敗したり、うまくいったりする。
そして、たまにこうして文章にする。
20年以上前から、結局やっていることはそんなに変わっていません。
ただ一つ違うのは、
昔は「俺は何者なんだろう」と考えていた。
今はもう、何者にもなりたくない。
このままがいい。
今回、昔の自分の文章を眺めながら、ふと思いました。
いいぞ。おまえ、よくやったぞ。
これまでの20年、大変だったけど最高だったじゃん。
たぶん、今はそれくらいでちょうどいい。